昭和44年3月13日 朝の御理解        (末永信太郎)   №44-041

御理解第二十一節
 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ、世界が闇なり。



 十一日、十二日を若い先生方、青年教師の方達がここを会場にして、まあ、信心の研修、布教に携わらせて頂く者の、これは信心のけいこと言うかね、そういう研究を、講師を迎えて、その講師の先生の御信心を中心にして、まあ、あったんだと。私はその中に入りませんから、どういうようなお話があって、どういうようなところを求め合うて行かれたかということを、よく知りませんけれども。
 まあ、私が二日間、先生方の、あれは信心の、いわゆる、信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと仰るところのあれを感じたまま申しますと、真にわが心が神に向かう。その信心を本当の意味で求めてはいない。信心を求めておるのではなくて、どう言うたらいいんでしょうか。おかげを求めておるという訳でもないでしょうけれども。
 昨日の朝の御理解、昨日いつものちょうど倍でしたね。いつも三十分で終わりますね、昨日はちょうど一時間、朝の御理解頂きました。御神戒の一番最後の、信心する人の真の信心なきこと、と(書く?)。ね。確かに信心を求め合うておられるんだけれども、いわば、その真の信心を求めようとしておられないという、まあ、結論すると、そういう感じでした。真の信心を求めようとしてない。
 言うなら、まあ、信心は求めておる。ね。けれども、その真の信心を求めようとしてないという感じを、まあ、断片的にですけれども、聞き、または時々ではありますけども、先生方に接してそれを感じましたですね。ね。最後に、ね、カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば世界は闇なり。信心なければ、世界が闇なり、とこう。もちろん、ここで仰る信心とは、いわゆる、真の信心のことですね。真の信心がなからなければ、世界は闇なり。ね。
 ですから、その、確かに闇ですから、手探り的な信心をしておるのですから、まあ、仕方がないと言やあ、仕方がないけれど。どうでも、だからこの、闇ですから光が必要なのである。ね。その光を求めるということが、真の信心なんだ。なら、真の信心を頂いてしまわなければ、光が頂けんかというのではなくてね、本気で真の信心とは、真の信心とはとこう、その、求めるところへ、芯がなければ火がともらずと仰る。その芯を立てていく。真の信心とはというところに焦点を置いて、信心の、まあ、研修をやり、信心のけいこを良うさせて頂く。その気になっただけでね、そこに微かながら光を頂ける。
 その微かながらも頂けれるその光が楽しみ、光が頼り。それが、段々濃厚なというか、大きなというか。ね。深く広く、その光が頂けて行くことの楽しみが、信心なのである。良い話が出けるようになるけいこでもなからなければ、拝むことのけいこでもない。問題は、その光を求めての信心。いわゆる、真の信心とはという、そこのところの持っとらん。本気で真の信心とは、どういうことであろうか、その真の信心が頂きたいと心にそこから思うただけでね、微かながらでも、この光が頂ける。
 ね、それが神様の喜びがすぐ照り返ってくるからですよ。親孝行は出けんでも、本気で親孝行がしたいと思うておる。その子供のことを、親が喜ばんはずはないです。その喜びが返って来ないはずはないです。ね。問題は、その芯から思わない。去年かの青年教師研修会の時にも、ここの会場を使われた。今度、一年ぶり、またここで会場を提供したわけですけれども。今年、私は有り難いと思ったことは、先生方の案内にね、羽織袴着用のこと、ということがある。ですから、先生かたみんな、奉仕着を持って見えましたですね。
 私、本当にあの、願わくばです、ね、あの洋服を着てから、ここで、それは御大祭の時、装束持って(来られて?)鞄も下げて来とりなさるわけですけれども、どこから来ても、それはちった不自由かも知れんけれども、金光様の先生ですから、紋付袴で出たって、そのおかしい事はないというぐらいな信心が欲しいと思うね。お茶のおばさん達でも、あなた、衣つけたまま、ね、外へ出られておられるでしょう。ね。
 キリスト教の宣教師なんかは、やはり、ちゃっと黒衣に身を固めて、あの(天さん?)達ね。何かやっぱこう、お帽子か何かね、あれをつけて町でよく会いますよね。えらいと思いますよ、私。金光様の先生は、これがあなた、いわば、まあ、正装でもあり、また普段着でもあるわけですけれども。これが、神様の前に奉仕するための、この奉仕着ですよね。
 人の難儀が助かることのための、はあ、あちらは金光様の先生ばいな、紋付袴着けてあると、皆が感じてくれるような。それはわざわざ、それを宣伝して回ることはいらんばってんですね、そのくらいな、私は度胸がなからなければ、人は助からんと思うね。洋服を着てくることが悪いとか言うとかという事じゃないけれど。うん、まあ、言うならば、そのくらいなものは、気骨が欲しいと思うね。
 ね。けれどもまあ、ここで皆お届けに来て見えた時に、みんなあの紋付袴を着けて、これからいよいよ信心のけいこをさして頂こうとされる、その、私はやっぱり打たれました。ね。ですから、あそこまでは出来ておられるのであるから、あそこから、もうひとつです、もう自分達が(嫌に?)なる。やっぱ青年教師の、まあ、言うなら二代三代の方が多いかったり、または、(末永先生?)辺りのように長男でありながら、やはり、もう荒地布教を志して、現在も布教地に出ておりますような人達も、ありますわけです。ね。
 だから、どうでもその、教師たる者、取次者たる者、光がなからなければお取次ぎは出来ん実際は。そのお取次ぎの、昨日、前日の皆御祈念を終わられて、十時頃から休まれる。それで、お神酒をいっこんあげたいと思ったけど、まあ、遠慮すると言われるから、まあ、好きな方のために、私が食堂に洋酒なんかを用意してから、まあ、一杯頂いてお休み下さいと言うておりましたから、みなさん、ところがやっぱりもう、一人も頂かんモンはない、皆やっぱ頂く。
 ほれは、大分やっぱ、もう、お酒ビールがガバリ減っとる。(笑)夕べは(  )ある分と思いよった、おビールでも何でも。ほれは、もう皆、やっぱ飲んでしまった。ほれは、もう飲んでもらって良いどころじゃない。もう、それはもう、本当に家を提供しておるのだから、良いどころじゃないけれども。何と言うでしょうか。本当に信心を頂こうと真剣になさっておられる人達のそれに触れたら、まあ、んなら、私達はまあ、言うなら、何て言うでしょうかね。まあ、先輩の先輩としてです、嬉しいことだ。ね。
 それをしてあげれるということは、嬉しいことなんだけれども。どこかが、こう、焦点が違ってる。そして、その、まあ、より良い幹部の方達は洋間で、それから普通の方、(下の方達は?)食堂で。で、そこでは入らんから、コタツの部屋でも、こう、あっちこっちです、女の方達は二階でお茶でも差し上げたそうですけれども、そんなことがあったんです。
 で、その、奉仕をしながら子供達が色々持って来てあげたりする時に、話があってるのを、まあ、ちらちら聞くのにですね、どういうようなお話ばしたなら、あの、信者が安心するごたる話が出けるじゃろうか、と。まあ、そういう意味の話がやっぱあっておるわけですね。お取次ぎを、心配事を持ってくる。そん時に、この信者に安心を与えれるような話は、どげな風な話をしたならば、信者が安心するじゃろうか、と。
 ね、言うならば、その、まあ、御取次のテクニックっても申しましょうかね、要領とでも言おうかね。その、こんな時には、どげな御取次したら良いかという、その技巧的なものだけを一生懸命けいこしようとしておられるといったような感じです。ね。
 例えて言うならば、病人が参って来たなら、どういう風に。経済的な問題で参って来たなら、どういうような御取次をさせて頂こうか、と。ね。問題は、ここに御取次をさせて頂くその先生自身の心の中に、光がなからなければならん。光があれば、暗い思いで参って来たって、もう、そこで(ものもの?)と明るうなるです。親先生御取次頂いたら、安心。帰って行くと、また家では不安になる。それは、光から離れるからである。ね。問題はだから、もう、言葉じゃないの、話じゃない。その上、御理解を頂く。
 それはどういう話かと言うと、有り難いという話なんだ。ね。私どもなんか、どうでしょう。病気のお届けがあって、やはり真っ暗い心で参って来ておる人でもです、ね。私が今有り難いと思うておることは、人間関係のことかも知れない、経済のことかも。まあ、とにかく、私が有り難いと思う話をさせてもらやあ助かる、心が明るうなる。ね。
 でない、本当はどんな心配を持って来ても、ここのお広前にお引き寄せを頂いて、あの障子を開けて入ってきた途端に、おかげを頂いたあ。もう、お届けをすることが無くなったというように、おかげを頂く人がここで多いでしょうが。もう、光に接するからなんです。ね。ですから、なら、その光はどこから発しておるか。どういう信心させてもらやあ、その光が頂けるのかというところに焦点をちょっと置かなければならんのにです、ね、御取次をさせて頂く一つの方法とか。ね。
 いわゆる、その技巧的なものを勉強せにゃならんという風に思うておられるのじゃなかろうか。そして、本当の光には、目もくれないという感情を非常に強く受けたです。けども、ここまでは分かっておられる、こういうところは分かっておられる。そこまでは分かっておられるけれども、それから先を分かろうとしないでといったような感じが強い。ですから、そこんところを、まあ、これからお若い、みんな先生方は若いですから、なら、求めて行くことでしょうけれども。
 もう、やはり一番初めからね、信心をさせてもらうなら、ね、一つの目当てというものを、ね、例えば私どもが三代金光様、三代金光様を目当てにいわば信心をしておるように、間違いのないところに目当てをおかないと、その間違ったところにいくら落ち込んで行ったって、結局、御取次をさせて頂くそのお話は上手になっても、テクニックが上手くなってもです、ね、問題は人が助からなければ御取次の値打ちはない。
 だから、なら、真の信心とは、真の信心とはということは、もう、それこそ、まあ、金光様の信者であれば、教師信者を問わず申しますことですけれども、いわゆる、ここに芯がなければと、こう言う。本気で、一心に真の信心とはと、求め抜くという、ね、例えばその真の信心が分からせて頂くならば、ね、いわゆる、事食べること。ね。例えば、そこの人間に与えられておる、そういうことでも。ね。
 例えば、眠らん修行させて頂いても、食べん修行をさせて頂いてでも、もし分かるものなら、そのくらいな修行はさせてもらうというくらいなものが薄いですね。ある先生が早く見えて、私ちょっと挨拶させてもらった。その方のお父さんに、大変ご迷惑をかけたことがありますからね、会長の時分に。で、そのことをお礼を言うて、まあ、お茶ども頂かせて頂きながら、このお庭を見られてです。
 その教会には大きな庭に、木がたくさんこう植わっておる。そのお宅はなかなか、庭には大きな木が植わって、まあ、うっそうとしてですね、教会の境内が、まあ、境内らしいと言うてその、ここでは申しましたが。まあ、父が好きで安う言うとりますけども、先生が、教師が、例えばこの、何か後から聞いたんです。共励会なんかに皆が行って知ってる。なるほど、植木があるけど、それがみんな枯れよるそうです、最近そこの木が。とにかく知らなかったんだ、以前のことしか知らん。
 そしたら、あの、教会長がその、木の手入れどんしよったっちゃ、その、信者が育ちませんからねと、こう言う。はあ、なるほど、お父さんじこみだな、いわゆる、おじいさんじこみだなと、お爺さんが大変な徳者でしたから。やっぱ、聞いておられる。ね。だから、そこまでは分かっておられる。先生がね、自分の道楽にども、例えば植木をいじったり、花どんいじったりするごつなったら、もう、いわば信者は育たんのだということ。ね。甘木の初代が布教当時に、ナスを少しばかり植えられた。ね。
 ところが、ピタッとその、野菜のお供えが止まってしまった。そこで、神様にお願いをなさったとこが、ね、もう家に野菜作るぐらいなら、もう、お供えはいらんじゃないかという神様のお心を悟られて、その、植えたばっかりのナスビを全部ひっこいで、人にやられた、と。また、元通り野菜が、ずっとこう、お供えが頂けるようになられたとこう。ね。
 ですから、お道の教師がね、ただ自分で野菜ども作るごとなったんじゃ駄目だ、そこまでは分かってるんです、皆。それで、私が申しました。そうですもんねて、先生がそげな道楽にども打ちこむと、本当にあの、やはり信者は育ちません。けれども、段々ね、そこの教会が庭であろうが、木であろうが、ね、立派に育つようなおかげを頂かんと、また本当な信者は育ちませんよと言うて、まあ、話したことでした。
 先生自身が花を作るのじゃない、先生自身が庭いじりをするのじゃない。ね。誰かが、いわゆる神様の働きが、ね、ナスビを植えたら、もう野菜がお供えが無くなったけれど、それを悟られて、これは野菜作りより神様に打ちこまにゃならんと言うて、そうなさったところが、もう、また次の野菜が、必要なだけの野菜は集まってくるようになったと言われる。そこんところが、光なん。それが光なん。
 植木いじりはしよりません、花は作りよりません、野菜は作りよりませんと言うても、さあ、野菜に不自由したり、庭の木が枯れてしまって行きよるようなことではね、これは本当な生きた光があっておる教会とは思われないていうこと。だから、その辺までは分かってる。ね。取次者とはこういうもんでなかにゃいけないんだ、と。だから、惜しい。そこまで分かってるから、なお惜しい。ね。
 本当に庭の木が枯れて行きよるなら、それを切り倒して次の木が植えられていく。庭が、いわば草ぼうぼうとしとんならば、その草を刈り取らせてもらったり、庭の手入れをしたりさせて頂く得心の信者がその教会におらなければいけない。どんなに伽藍堂のように大きいなお家であっても、やはり、ホコリまみれであってはならん。それがいつも、隅々まできれいになっておるといったようなおかげを頂かなければならん。それは、さあ、そこからなん。ね。
 教会だから、例えば飾りやらいらんちゅうことはない。まあ、合楽のような所は珍しいでしょうね。もう、たとえば(ちょうと品??)一つにしても、まあ、言うなら最高な物が置いてあったり、見せる物があったり、そこにしておる。ね。ですから、金光様の先生だって、普通の人間だって、やはり良い物を見りゃあ、気分がいい、人間ですから、んなら、最高のものを見たり、着たり、んなら、食べたり出けれるようなおかげを受けなければいけない。それは光なんだ、それが出けるということは。ね。
 ですから、例えば、あの、末永先生なんかに私話したことですけれどもね、只今布教、只今布教地、まだ布教所を開設したばかり。ね。それが、なら、良い物を見たり、良い物を着たりということが出来ようはずもないけれどもです、そこに必要な物は必要に応じて、その信心程度のことだけぐらいは、ちゃっと出けるからこそ有り難い。そのおかげは頂かにゃつまらん。
 前の手紙に、一年生になる子供が、長男がおります。学校から帰ってくると、(        )米(みつを?)握る。ね、子供ながらも、もうとにかく、本当にあの、何もない中からおかげを受けて行かんならんことを知ってる。米がないと、ご飯が食べられん。それで、ちゃんと御神飯だけは必ずおかげ頂くけん、お父さんやらお母さんは頂かんでもね、御神飯を下げてやるから、あんたは米(みつよらんでんよか?)と。ね。お米を心配せんでんよか、と。言われても、やっぱ子供がその米(みつ    ついて行って)、なるほど厳しいことだなあ、とは思うんです、信心とは。ね。
 けれどもね、あんたにひもじい思いをさせるようなことはなか、と言えれる。それが、光なんだ。ね。それが光。そういうものを、私は求めての信心がなされなければいけんのじゃないか、と。ただ、お取次のそのテクニックだけを身につけて行く、と。言うなら、金光様の、金光教のこれは、本部の先生方だけでもないけども、評してある人が言っておる言葉の中に、金光教はね、学者に弱い。
 本当に、実意丁寧を看板に信心させて頂いとる。ね。その、非常に学者に弱いち言って言われとります。ここにね、本当の光というものが薄うなって行く所以があると、私は思うのです。(自分の上に?)立った宗教。なるほど、それも大事。ね。けれどもね、光に弱いという信心にならにゃ駄目。ね。やはり、お徳には弱いという信心じゃつまらん。はあ、もう先生は徳者だ、と。その徳者という人の信心に、例えば、ね、言うなら、はせ参じてでも、その徳を引接しよう、光に接しようというようなものが薄くなってる。
 むしろ、そういう光には、それを敬遠する。それに理屈をつける、それを非難する。そういうものが強いです、今の金光教は。そして、学に弱い。昨日見えておった講師なんかの先生も、東大(じ?)だそうです。ですから、若い者だから、若い先生のその学問を身につけた、いわゆる学徳を持った人のお話を聞くということは(あるないけども?)、若い者は若い者で、自分なりに持っておるんだから、そのくらいで良いって、人んとまで頂かんでん。
 だから、本当言うたら、その、本当に人が助かることのために、また、自分自身が助かることのためには、やはり、世界は闇なり、自分達の行く先は本当は闇なんだ。どうなるだろうかと、不安でたまらん。そんなら、そこに光を求めようというような意欲のある、気骨を持った、もちろん持っておられるでしょうけれどもです、それを、私は非常に薄いものに感じたんですけれど。ね。
 それは、私の言うておることが当たっていないかも知れませんけれどもです、まあ、私はそう感じた。そして今日、この二十一節を頂かせてもろうてです、これは、いわゆる青年教師の方達じゃない、お互い一人ひとりがです、ね、信心せよ、信心とはわが心が神にむかう、神に近づいて行くということは、ね、真の信心。真の信心をさせてもらわなければ、神様に近づくとは思われない。ね。
 お互いがです、それこそ百色光というかね、大きな光の側におってもです、ね、その光を、おっても、その光を自分のものにしよう、自分が頂こうという気にならなければ、分けられるもんじゃない。ね。神徳の中におっても、氏子に信なければ、おかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火はともらずのである。ね。火がともらねば、世界は闇なりだ。その闇の世界に、私どもがこうやって、まあ、蠢いておるというのではなくて。ね。蠢いておるぐらいなこっじゃ、だから、働きが出来ん。活発な働きが出けん。人の難儀を取次助けれるといったような活発な働きが出けん。自分達じゃない、次の人達が、次々と自分を見習うて助かって行けるような活発な働きが出けん。ね。光を持たないからである。
 信心なければ、世界は闇なり。ね。真の信心がなからなければ、世界は闇なり。真の信心そのものが光なんだ。だから、その真の信心を頂かせて頂こうとする、その、芯がね、意欲が、ここに望まれるところだと、こう思うのです。お互い、手探りの生活をさせております。ね。それは、信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けと、こう仰せられるのに、肉眼で見るから、目が真っ暗になる。ね。心の眼を開いたら、ね、それこそ自由な働きが出けるようになる。ね。
 そこんところを、私はおかげを頂くためにです、信心させてもらうということがです、信心とはわが心が神に向かうのであります。ね。信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰る。それが、神に向かうのであります。ね。ですから、それをね、んなら、真の信心が解りきってしまわなければ光にならんというのじゃなくて、本気で親孝行しようという気になれば、親孝行は出けんでも親が喜ぶ。その喜びがこちらへ照り返って来るように、本当の信心を求め、本当の光を頂きたいと本気で一心に芯を立てればです、神様が喜んでくださる。その喜びが照りかえってくる。
 そこに、微かながらも、信心の光を感ずることが出ける。ね。その光が、だんだん濃厚なものに、広大なものに広がって行き、深まって行くことを楽しみに信心させてもらう。そういう信心が、私は大事だと、こう思うですね。どうぞ。